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Story

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あいと電氣餅店ができるまでのストーリーをご紹介させていただきます。

 

「電氣餅」と呼ばれた餅。

 

電氣餅が福島県の南相馬市で誕生したのは大正五年(1916年)、今から百年以上前のことです。宍戸(ししど)青果店の主人が手作りして軒先で売っていたものが、あまりの美味しさに評判となり、やがて青果店は和菓子の専門店となりました。食品添加物が存在しないその時代の大福は、現代ではほとんど手に入ることのできない生(き)の大福でした。

 

宍戸青果店では当時としてはまだ珍しかった電動餅つき機を導入していました。

そのため、お客さまたちから親しみを込めて「電氣餅」と呼ばれるようになり、そのまま店名も「宍戸電氣餅」と改められました。

 

一代目から二代目へ、地域に愛された味は引き継がれ、三代目当主の宍戸貞勝(さだかつ)の手によって革新が生まれ、現在の感動的な生大福が完成します。

 

貞勝は根っからの職人でした。

小学生で先代の父親が死去し、幼少の身で家業を継がざるを得ない立場になったためです。食べさせなくてはならない兄弟たちが貞勝にはいました。まだ幼かった彼は毎朝小学校登校前に数百個の大福を作り、下校してからもただひたすら仕事を続けました。中学になると朝三時から仕事をはじめました。子供らしく遊んだ記憶はありません。すべて生活のためでした。

 

幼少から和菓子制作の鍛錬を積んでいた彼は、二十歳にしてすでに他の職人が驚くほどの熟練した技術を身につけていました。それでもなお味を究めたいという強い想いから、他店に修行へ出るようになりました。その過程で貞勝は様々な和菓子の製法を習得していきます。修行によって得た知識と技術は、すべて電氣餅に活かされることになりました。


大福は、餡を餅で包むだけのシンプルな生菓子です。

しかし、シンプルであるが故に、どこまでも奥深い味の世界が広がっています。

他店への修行生活を経て、貞勝の求めていた味がついに完成しました。

 

それは初めて食べた人に、衝撃と感動をあたえる大福でした。

 

次第に電氣餅の名は小さな街を越えて、遠方まで響くようになり、最盛期には一日に2000個以上を売り上げるようになりました。様々な街から学生が、主婦が、美食家が噂を聞いて店を訪れました。貞勝は家族の生活を支え、兄弟たちに教育を与えて、70年間ひたすら仕事と向かい合った本当の職人でした。

 

 

あいと電氣餅店のストーリー画像1

 

 

半径20.1㎞。南相馬にとっての東日本大震災。

 

電氣餅にはテレビや雑誌からの取材依頼もひっきりなしでありました。しかし職人気質の強い貞勝は、ほぼ全ての取材を断りつづけました。というのも、一度テレビの取材を受けた際に、通常の数十倍の新規顧客が殺到して、いつものお客さまのぶんの商品まで残せない期間が長らくつづいたからです。多くの人に食べてもらいたい気持ちはありますが、当時はスマホでの簡単な予約販売などもできない時代でした。

 

しかし時間の流れとともに、街全体からはすこしずつ活気が失われていきます。

若者が減り、子供が減り、そして仕事が減っていきました。一方で増えていくのは高齢者たちです。南相馬とは東京から車で四時間以上、仙台までも約一時間かかる郊外です。周囲に高層建築物などなく、大きな産業と言えば農業と、そして隣町にある福島第一原子力発電所の周辺産業でした。

その地理的条件が、決定的でした。

 

2011年3月11日、東日本大震災が発生します。

 

この地震に影響を受けなかった日本居住者は一人もいません。しかしその影響の大小は、居住地によって変わってきます。南相馬にとってのそれは、目を開いたまま体験する悪夢のようなものでした。

 

南相馬は福島第一原発の半径20㎞の範囲にかかっています。

まるで土地の一部が無理矢理もぎ取られるように、その部分は強制避難、立入禁止区域に指定されました。しかも半径20.1㎞以上に住んでいる残りの人々は自主判断となり、「逃げればいいのか」「残った方がいいのか」という選択を迫られて酷い恐怖と混乱に陥りました。

テレビでは連日、原発の状況と、津波の被害と、そしてシーベルトやベクレルと言った単位の目に見えない脅威が放送されていました。

 

ただでさえ縮小が進んでいた地域経済は、この日を境に一気に加速していくことになりました。少なからぬ人々が街を出て、もう戻ってはきませんでした。農家は干上がり、その他の地場産業は力尽きるように次々と看板を下ろしていきました。

 

電氣餅もその影響から逃れることはできませんでした。

 

売上は激減し、店を細々とつづけていくことも困難な状況となったのです。
貞勝は「もう継承者は作らない」と決めていました。
後継者が苦しむだけなのを知っていたからです。

それでも店を続けていたのは、一変したこの日常の中で、電氣餅の味を楽しみに今日を生きているお客さまがまだいらっしゃったからです。

 

 

あいと電氣餅店のストーリ画像2

 

事業コンサルタントが、大福屋の弟子になる。

 

鈴木瞳は南相馬出身の事業コンサルタントでした。

 

十五年以上勤めていたavex社では、鈴木を含めたわずか3人で企画をスタートさせたBeeTV(現dTV)が会員数五百万人という国内屈指の巨大サービスに成長するまで尽力しました。

やがてavexグループ内で女性唯一の子会社社長となり、退社後にはCtoCのサービスベンチャーを起業。出産後を経験した後、事業コンサルタントとして様々な会社のサポートをしながら人生を奔走してきました。

そんな彼女の楽しみは美味しいスイーツで、伝統や流行にこだわらず気になった洋菓子・和菓子は積極的に買い付けて試していました。

 

鈴木が貞勝の店を訪れたのは、偶然でした。

実家に里帰りしたとき、家族のために何の気なしに大福を買おうと思ったのです。でも、家に帰ってはじめてその大福を食べたときに、鈴木の全身に衝撃が走りました。その大福がこれまで食べてきた大福とあまりにも違ったからです。

 

 

餅が舌に当たるファーストアタックからして、他の大福とはまったく似ていませんでした。柔らかさも、香りも、味も。

 

甘さはどこまでも繊細で控えめ。

まるで羽が生えたように軽い味わい。

食べる手が止まらない、いくつでも食べれる。

 

ひとつ食べ終えると、二つ目に手を伸ばし、すぐに三つ目を口にしました。大福を三つ同時に一気に食べるなんて、人生で初めてのことでした。まだ湯気の上がる湯飲みからお茶を飲んで、それから自分の両手をまじまじと見つめました。指先がじんじんと脈打っていました。心から感動していたのです。

そのとき、家族の話し声が耳に聞こえました。

近隣の商店が、後継者不在のため閉店したという話です。東日本大震災後の南相馬では毎日のようによくある話であり、よくある光景でした。

しかしそのとき鈴木は全身のバネが跳ねたように勢いよく席を立ち、そのまま車に乗って先ほどの大福屋に向かいました。赤信号がもどかしく感じるほど、気持ちが走っていました。

 

 

店を訪ねると、先ほどの店主らしき老人がいました。店のガラスケースにいくつか残っていた電氣餅と名付けられた大福をすべて欲しいと注文しました。そして、電氣餅が包まれているあいだ「ひとつお伺いしても良いですか」と鈴木は訊きました。

 

「ご主人ひとりでお店をやってらっしゃるんですか?」

「んだ(そうだ)」

「そうなんだ……。もし引退されたら、どなたか電氣餅を継がれるんですか?」

「んなもん居ねぇ。店はもう趣味でやってるようなもんだ」

「……」

「もう近いうち閉めようと思ってるしな、そしたら終(し)めぇだ」

 

無愛想な職人口調の店主に、鈴木は口を開きました。

 

私を、弟子にしてください

 

南相馬の電氣餅じゃない、日本の電氣餅に。

 

当初、弟子入りの願いは、突っぱねられました。

電氣餅は、オレの代で終わりだ。弟子は取らねぇし、子供にも継がせねぇ

三代目当主の貞勝はそう言い切って、取り合いもしませんでした。

 

しかし鈴木は諦めるつもりはありませんでした。毎日店に行っては、弟子入りを懇願しました。

 

鈴木にはこれまでエンターテインメントやデジタルサービスでユーザーに感動を届けてきた自負がありました。でも今はそれと同じ、あるいはそれ以上の情熱で、この感動を多くの人に知って欲しいと思ったのです。

端的に言えば、もう覚悟を、決めてしまったのです。

百年以上続く地元で愛された電氣餅、その感動のバトンを次に繋ぐ。

 

貞勝が鈴木の情熱についに根負けしたのは、弟子入りを志願されてから1ヶ月経ってからでした。

 

東京と南相馬を半月ごとに行き来する鈴木の生活がはじまりました。

師匠の貞勝のもとで学んだ仕事は、東京に戻っても寝る間を惜しんで反復練習し、次回南相馬へ行った際にその成果をまた確認してもらいました。

 

とにかく、餅に触わることだ

 

鈴木は師匠の言葉の一言一句を守って修行をするかたわら、有名店の大福の研究も始めました。電氣餅との違いはどこにあるのか、その製法は、成分や配分は? 気になるものは南相馬に持っていき、貞勝に試食してもらって意見をもらい、他店の大福の分析に努めました。

 

この間に試食した大福の種類は数百をくだりません。

おはぎや和菓子を含めれば千はゆうに超える種類です。このような地道で長い研究が、電氣餅だけでなく、いつか自分が作るかもしれない新商品の土台になっていくと信じていました。それは貞勝から教えてもらった電氣餅の歴史そのものでした。

そして様々な大福を知れば知るほど、電氣餅の素晴らしさを再認識し、三代目から技術を学んでいることに誇りを持つようになりました。

 

貞勝が継承者を作らなかったのは、技術に厳しく頑固な職人気質だったこともひとつの理由ですが、最大理由は、地域経済の縮小にありました。片田舎で店を開いていても満足のいく売上とならない。

 

しかし鈴木は初めから、この電氣餅を日本各地の方々に味わってもらうことを考えていました。まずは東京から、そして全国へ。

南相馬までは食べに来れなかった方々でも、アクセスの良い場所で、最高のタイミングで提供して、この電氣餅を体験してもらう。

その話を聞いたとき、貞勝はしばらく無言でなにかを考え、それから顎をくいっと持ち上げて「まずは味だ」と無愛想に言いました。

 

鈴木が作る大福が、はじめて宍戸電氣餅屋にならんだ日から月日が経ちました。

 

ある日、鈴木が作ったばかりの大福に貞勝が横から手を伸ばしました。それからおもむろに大福を口にしました。噛みちぎり、ゆっくりと咀嚼して、飲み込んで、唇を舐める。そのあいだ貞勝はにこりとも笑いませんでした。

時計の針が止まってしまったかのように、時間がゆくりと流れていました。

 

それから彼は言いました。

 

「……もうお前ぇに教えることはね。継ぎたきゃ継げ。好きにしろ」

 

そう言って、残りを口に放り込んで完食します。職人らしい節ばった手をぱんと叩いて、ようやく三代目当主は笑いました。

 

これからは、お前ぇが作る大福が、電氣餅だ

 

 

あいと電氣餅店のストーリー画像3